宮澤崇史「はじめてのイタリア生活 ー 我が道を振り返る・その5」
海外へ行くには、今のようにEチケットではなく紙のチケットを旅行会社に郵送してもらうのが当たり前だった時代。
9ヶ月も滞在するのに僅か25kgの荷物、初めてのビザを携えてイタリアに到着しました。
しかし到着ロビーには、迎えに来てくれるはずの大門監督の姿がありません。まあ待ってればそのうち来るだろう、と悠長に考えながらベンチに腰かけて待っていました。
今のようにメールもなければ、国際電話もないから連絡の取りようがありません。国際テレフォンカードで日本に電話して、そこからイタリアに電話して、なんてことは思いもつかない旅の始まりでした。
2時間が過ぎ、トイレに行きたくなりました。
ヨーロッパは治安が良くないと聞かされていたので、警戒してギリギリまで我慢に我慢を続けたけれど、流石に限界に達しトイレへ行くことを決意。半地下1階に降りるには、荷物が多過ぎて運ぶことなど到底できません。
周りに人が少なくなった時を見計らって、階段上に荷物を置いて貴重品だけ持ってトイレへ走る。ありったけの腹筋を使って20秒ほどで用を済ませ階段を上がると、荷物は無事そのままでした。ふ〜。
そもそも9ヶ月分の25kgの荷物って全部が貴重品なのだけど、とりあえず問題は解決。
最終的に迎えに来たのはイタリア人のジョルジョ。でも僕はジョルジョの顔は知らないし、どうしたってその辺の怪しいイタリア人にしか見えない。
僕が警戒するのでジョルジョが大門監督に電話をしてくれて、「そいつについて行って。大丈夫だから」の一言を聞いてようやく一件落着。
翌朝ようやくホテルの外に大門監督が現れ、チームへと合流。チーム監督と一時間ほど話をした後、大門監督は「また来るから。困った事があれば連絡くれればいいから、頑張って!」
と言い残し、その後五ヶ月間も顔を見せませんでした。
そしてその五ヶ月間、ただの一度も大門監督に連絡することはありませんでした。なぜなら、一度も困らなかったからです。
イタリアのチームにマフィア社会のようなイメージを勝手に持っていた僕は、先ずチームの中心人物を見つけて仲良くなりました。すると何か困った時には、彼が周りの選手を使って助けてくれるのです。
最も肝心なイタリア語の習得は、学校には通っていたけれども成績は一番下のクラスで最下位。
エリートカテゴリーの選手がひしめき合うチーム「FOR3ベルガマスカ」は、今年で選手を引退するかプロになるかの瀬戸際の強い選手達ばかり。そんな選手たちと6時間トレーニングした後の授業は非常によく眠れました…
「イタリア語を学ぶ日本の若者」として地元の新聞に取り上げられた時の記事
その頃のイタリアのアマチュアチームといえば、トレーニングと日々の散歩以外はベッドの上で過ごせ!という軍隊のような生活が当たり前でした。
一日のスケジュールと食事内容はすぐに書けます。
朝起きたらラスクにリコッタと蜂蜜&ミューズリー(美味しくない鳥の餌みたいな)。トレーニングに行っても食べる量は決まっています(バー&ラスク)。
帰るとシャワーを浴びて、塩とオリーブオイルだけのサラダと素パスタ。昼寝を30分したら1時間の散歩。
夜は昼食に鶏か豚の塩焼きグリルがつくだけ。
一日が終了。
という、まるで家畜のような生活が9ヶ月も続くのです。”家畜の餌”のような食事が自転車選手の取るべき食事とされた時代。チームメイト達と。
そんな生活の中で、レースが僕にとって一番の非日常でした。
エリートは殆どのレースが120km〜150kmという距離。平坦アベレージ46km/hなら「今日は遅かったな」と感じる。
そんなレベルのレース。
チームからのオーダーは特になかったけれど、その中でできる事を必死に探しました。
僕がすべきことは、「完走する」ことではなく、「集団の前にいる」ことでした。すなわち、レースをよく見て、ヨーロッパのレースを学ぶこと。
集団の後ろについて前に上がることを諦め、なるべくゴールに近いところまで集団で食らいついていく、そんなことには何の価値もない。
と、もうその時からわかっていた。
その後、これが僕にとって最大の武器になっていくことは、この頃知る由もありませんでした。
続く