宮澤崇史「自分の武器を見つける ー 我が道を振り返る・その7」
20才から22才まで、僕にとってはロードレース空白の3年間だった。
競輪学校の試験を受けて、競輪選手になろうと思っていた頃だった。なぜこんな方向転換をしようかと思ったか。
イタリアで走っている時に大きな壁にぶち当たっていたことについては、これまであまり話してこなかった。
僕が初めて行った頃、イタリアではアマチュア選手からプロ選手まで殆どの選手がドーピングをしているのが当たり前という状況だった。
そのことを一般的に話すことがあまり良いと思わなかったからだ。
でも、そういう時代だった。
日本ではいまだに筋肉増強剤的なものしかイメージとして浮かんでこない人が多いが、ドーピングにも様々な種類があった(その時に僕が目にしただけでも)。
そんな事情だから、U23カテゴリーの2時間のクリテリウムでもアベレージが47kmを下回る事は殆どなく、まったく上が見える気がしなかった。
エリート選手の多い強豪チームに入っていた僕は、年間の殆どのレース(60レース程)に出ても完走できたのは5レースくらいなものだった。
2年目はU23のレースにも出場し、10位以内に入ることもしばしばあったが、トップとの差は歴然。完全に戦意を喪失したまま、レースシーズンが過ぎていく。
春先のGiro delle Regioniは、プロへの登竜門。一列棒状で走っている選手の横を息も切らさずスーッと前へ上がっていく選手を見ていると、完全に鼻を根こそぎ折られた気分だった。
いつの日か、僕にもドーピングという言葉が現実的に襲ってくることに恐怖を覚え、この世界で生きていける自信が完全になくなってしまった。
日本に帰ってきて何を目指していいかわからなかったが、自転車が好きだ!という気持ちだけはなくならなかった。
自転車に乗ることが自分の生きる道と考えていた僕は、日本に競輪があることを思い出した。
2001年、心機一転。トラック自転車に乗り始めた。
競輪学校の試験は、1000mタイムトライアルの合格ラインが1’10″30くらいでいつも足きりになる(上位人数で決まる)。
2次試験は1000mと200m、学科と面接がある。トレーニングは「いかに短い時間に大きなパワーを出すか。そして、出しきるか」が重要で、それまで乗っていたロード乗りに必要な「いかに出し切らずに最後まで力を貯めて最後の最後で1時間~30分、力を出し続けるか」とは真逆な要素のトレーニングになる。
ウエイトトレーニングと、トラック競技場でのトレーニングを始めた。ウエイトトレーニングは冬が中心になるので、短い時間になるべく身体の筋肉に変化を持たせることに集中した。
ハーフスクワットは始めて3ヶ月で体重の2.6倍を10回、デッドリフトは体重の2倍まで上げていった。タイムは常に1分11秒前後で、なかなか10秒の壁を突破することが難しかった。
それでも、全く歯が立たない世界ではないことへの不安だけはなくなった。
テストである1000mタイムトライアルに求められる力は、スタートのパワー+加速のスムーズさ+最高速+維持。
一番の問題点は最高速が遅かったこと。1分10秒で出し切るという難しさだった。
ベストタイムは1’08″68だったが、常に1’9秒台を出せないと合格は難しく、1’10〜11秒辺りをさまよっていた。
試験当日、年に一回しかない試験は本当に緊張した。今まで経験した中でもここまで緊張したことはない、と断言できるくらい。自分の人生が変わる日になるかもしれないのだから。
なんとか一次試験には合格し、二次試験へ進むが、結局合格することはできなかった。
完全に言い訳になるが、ロードはウォーミングアップはいくらでもできるし、良い状態のままでスタートラインに並べる。
しかし二次試験では、15分のアップ後に45分間も寒い部屋で自分の順番を待たなければならず、体が完全に冷え切った状態で外気温10℃の中を走り、タイムを出さなければならない。
この時、身体の強さをいつでも出せる力が根本的に弱いことに気が付いてしまった。
しかし、この2年間は自分にとって何もなかった2年間だったかというと、そんなことはなかった。
毎日トレーニング以外にすることのないイタリアとは違って、自由に取り組めることも多かった。その一つが、料理だった。
イタリアで僕が一番受け入れ難かったのが、選手用の不味い食事。だからスポーツ選手として食べて良い、かつ身体にも精神的にも良い料理の勉強を始めてみようと思った。
イタリアでは目の前に美味しい料理はたくさんあったけれど、ネットがない時代だったので今のようには情報が手に入らない。本を買ってもなかなか勉強する気持ちになれないし、日本から本を持って行こうにも自転車の荷物が多く難しい状況だった。
イタリアンレストランにアルバイトで入り、サラダとピッツァを作り、家ではイタリアで味わったあの味に近づけるための努力をした。
火を入れる温度、バランス、乳化。考えてもわからないことは、アルポルトの片岡シェフにweb上で質問をしたこともあった。
努力の甲斐あって料理の腕は上がり、その後のヨーロッパ生活で食事に困ることが殆どなかったのは先の話。
試験に落ち、目の前の道が閉ざされたことでもう一度自分と向き合い、母と話し合って、NIPPOの大門監督に話をしにいった。
母と大門監督が、ロードレースへの復帰を可能にしてくれたのだった。二人には本当に感謝している。
しかしその年、母が倒れてしまった。