宮澤崇史「自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その2」
小学生の頃の僕は走ることが大好きで、低学年なのに高学年のマラソン大会に紛れ込んで走ったりしていました。
優勝してはまずいので先頭集団の後ろで走ってゴール前のコーナーで道を外れ、みんなに見られないようにこっそり校庭の陰から戻ったこともありました。
ある時、先生が「アイアンマンというトライアスロンをやろう!」と言い出した時には、ワクワクが止まりませんでした。毎日朝・昼・夕方、累計が42.195kmになるまで学校の周りを走ります。
休みの日には、学校のプールで3.8kmになるまで泳ぎ続けます。自転車の180kmは流石に走れないので、校庭にコースを作り、休日に一度だけ朝から晩までみんなで走りました。
小学校であまりにも勉強しなかったおかげで、中学では練習時間が長いサッカーはさせてもらえず、テニス部に入部。球技は得意なつもりが、テニスは本当に自分に合わないことがよくわかった。
部活が終わってから自転車で市営のテニスコートへ行き、知らない人とテニスをするほど打ち込んでみたけれど、何ひとつ上が見える結果を残すことができなかった。
友達が長野から軽井沢まで自転車で走った話を母にしたことがありました。しばらくしたある日、マウンテンバイクのレースを探してきてくれた母がいた。
「へえ、こんなのあるんだ。出てみたい!」なんとなくそう思った。でもマウンテンバイクは持ってないから参加できない。
欲しいけど、その当時お年玉を貯めても1万円行かないくらいの自分にとって10万円もするような高価なマウンテンバイクは雲の上の乗り物だった。
そんなある日、母がどこからか自転車を借りてきてくれて、レースにも申し込んでくれていた。
え?まさか!
凄いサスペンションがついてる自転車。
まるで高級車に乗ったような気分になった。
レース会場へ行くと、レーサーパンツやジャージ、かっこいいヘルメットをかぶった選手ばかりで、自分は学校のジャージでサイズの合ってないヘルメット。走っているとヘルメットが落ちてきて前が見えないおまけ付き。
それでもなんとか27位でゴール。
母は今まで見たことがないくらい喜んで、僕を褒めちぎってくれた。友達の親に嫌味を言われたり、体育を頑張っても進学校でそれが評価されることなど殆どない中、母は本当に本当に心から僕を褒めてくれたのだった。
ある日、ツール・ド・フランスをTVで見て
あ、俺がやることってこれだ。
瞬間にそう思った。
疑う余地なんてこれっぽっちもなかった。
自転車部を調べると、長野県では岡谷工業高校が強く、バレーボールでも強かったためスポーツで寮に入る選手が多いことがわかった。
手紙も書いてすっかり岡谷工業高校へ行く気でいたが、ふと自転車部のある地元の長野工業高校に進学することを選んだ。
(滑り止めで受けた私立高校の面接で「自転車選手になりたいから片道20kmの学校に毎日通い続けます!」と言って合格できなかったことは、今でも忘れたいことの一つである…)
長野工業高校に入ってびっくりしたことがある。
それは…
部員が二人しかいなかった上に「自転車部」ではなく、なんと「サイクリング同好会」だったのだ!
なんだそれ~!!!!
そんな高校生活をどう過ごしたかは、次回へ続く。。。。。。