宮澤崇史「自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その1」
ツイッターやこのブログをいつも読んでくださっている皆さんはよくご存知でしょうが、僕は書くことがあまり得意ではありません。
しかしこの頃、人に伝えることがいかに大切であるかを感じることが多く、きちんと書いて伝えなければならないなと思うようになりました。
たとえば、自分がこれまで生きてきたことの意味。
自転車に人生を賭けてきたことの意味。
その自転車を降りて、こうして今生きていることの意味。
僕という人間は一体、何のために生かされているのだろう?
誰しもこの世に生まれてくる時、その時点ですでに多くのものを受け取って生まれてきます。さらには生を受けた後に受け取る膨大な親の愛情、周囲の支援、無数の出会い、無数の経験。成功と失敗、幸運と不運。
受け取ったものは、何かの形で返さなくてはいけない。
しかし、どのように?
そんなことを考えているうちに、まずは過去を遡って自分のことを書いてみようと思いつきました。
なぜ過去に遡ってみようかと思ったか。
それは、自分を再確認してみたかったからです。皆さんの人生と重なる部分もあれば、そうでない部分も多いかもしれません。
・・・
僕の自転車選手としての歴史を遡るとすれば、三歳まで遡る必要があります。三歳というのは、普通だったら自転車に触るか触らないかの年齢。そんな歳に補助輪を外すことに独力で挑戦した瞬間から、僕の自転車選手としての人生は始まります。
というのも、僕が選手として世界に挑戦する最後の最後までこの
「独力で挑戦する」
精神は続いたからです。
皆さんもご存知だろうけれど、補助輪の弊害は沢山ある。第一にスピードが出ない。狭い歩道では決められた場所でしか走ることができない。子どもを守るための装置である反面、自由を制限する装置でもある。
そんな「不自由」に不満を持ったのが、三歳の時でした。
僕が何を求めていたか。
ただただ自由に、自分が走りたい場所を走りたいスピードで、自分で全てを選んで走りたかっただけ。もっとつきつめた言い方をすれば自転車の話だけじゃなく、あらゆるものから自由になりたかった。
それだけのことでしかないけれど、誰もがそれを自分自身の意思で決められるかはわからない。
自由になりたいだなんて、一生考えない人もいるだろう。
何をもって不自由と感じるかは人それぞれ。僕にとって至極当たり前なはずのこの「自由」、それでいて手に入れられないこの自由を手にするための挑戦が、その瞬間に始まりました。
一日中、というのは自分の思い込みかもしれないけれど、それくらい夢中にただただ二輪をまっすぐ走らせる事ができるようにその日は集中して乗りました。
転んだ回数は数知れず。しかし転んだことはすぐに忘れる。自分が走れるイメージだけを追い続け、そうなれるように努力し続けた。
おかげでたった一日で補助輪は外れ、自分が思い描いていた自由を手に入れる事ができたのです。これが僕の人生初の成功体験でした。
それからというもの、毎日のように自転車に乗り、祖父の畑へ、田んぼへ自転車で行くようになりました。どこで止まっても、どこで加速しても何もかも自分自身で決め、自分の思い通りに走れる自由を手に入れたのです。
・・・
私の父は四十二歳でこの世を去りました。僕は六歳でした。今でも覚えているのは、ディズニーランドで体調が悪そうにベンチに座っている父の姿でした。そして今でもその姿以外の父を思い出すことはできません。
小さいながらにショックが大きく、無意識に記憶から抹消したのかもしれません。父の記憶が戻るとしたら、いわゆる死の前のフラッシュバックくらいの時なのかもしれません。が、そんなことは大して大切なことではありません。
専業農家だった父の家では父がいなくなった今、私の母は必要な存在ではありませんでした。父が亡くなった後、母は私と姉を連れて父の家を出ることとなります。
国家公務員だった母は、二人の子どもを育てるために女手一つで必死に働きました。
父の実家を去った後に移り住んだ家には電話がありませんでした。1980年代、電話以外の手段は足で声を届けること以外にありませんでした。それでも、そんな生活を不幸だと思った事は一回としてありませんでした。
なぜなら、僕たち家族は常に助け合い、僕が自由に生きていける土壌を母がしっかり作ってくれたからです。
その次に住んだ家は、夜になると天井の上でネズミが運動会をするようなボロボロの古家でした。僕は学校へ行っても勉強に集中する事は皆無の子どもでした。
いつも休み時間が楽しみで、食後の昼休みにサッカーをすること、休日に野球をすることが大好きでした。クラスメイトが集まらない休日は、学校の校庭で母にノックをしてもらう事が大の楽しみでした。
フライをあげて欲しいのに上手くあげられない母に文句を言うようなひどい息子でしたが、それをずっとずっと続けてくれた母には今思い返しても頭が下がります。勉強ができない反面、運動はとにかく群を抜いて得意でした。
小学校五年生の参観日に、クラスメートの親から「ようやく崇史くんは机の上を走らなくなったのね」と感心されるほど、全く制御不可能な、手のつけられない暴れん坊でした。
そんなわけで当時の僕は周囲の大人達から、子どもというより「イヌ」と認識されていたようです。