宮澤崇史「自由を手に入れること ー 我が道を振り返る・その4」
シクロクロス世界選手権の結果は22位、思った以上の成績を出すことができました。
それは、たまたま奇跡が起こったから。
スタートして最初のコーナーを抜け、土と芝の下り坂を下っていると、前方で大落車が起こりました。ほとんどの選手がフルブレーキする中、僕の目の前だけ道ができていたのです。
落車した選手を縫うように進むと前が開き、スタート1分後には15番手。結果的にも満足のいく順位でゴールができました。
このレースで学んだのは、どんなにラッキーでも決して自分のペースを崩してはならない、ということ。
あそこで浮かれて前の選手についていこうとしたら、もっともっと順位は下だったでしょう。一生懸命になりすぎて自分を見誤ってはならない。と、このとき心に刻みました。
高校を卒業する前に東京へ引っ越し、実業団選手として走っていたある日のこと。ラバネロの高村監督からイタリア行きたいか?と聞かれ、二つ返事で行くことを決めました。
それは、大門監督が初めて高校生をヨーロッパへ合宿体験させる企画をした時のことでした。
初めてのイタリアでは小高い山の上のホテルに泊まり、モイッツァという名の美人な給仕さんが食事を運んできてくれて、美味しくて美味しくて次から次へと平らげたことを覚えています。
前菜が終わる頃にはすでにお腹いっぱいで、続くパスタと肉をはち切れそうなお腹へ詰め込むことに。
イタリアでは、次の料理へ移る際に今食べているものを少し残してお皿を代える習慣がありますが、そんな事とは知らず出されるがままに食べ過ぎてしまった思い出。
これが僕が初めてイタリアの食文化に接した瞬間でした。
この合宿では、その後ずっと僕の心に残る言葉を頂きました。
体調が悪かったある日、それでも練習に行かなきゃならないと思ってチームメイト達と一緒に出発しました。
案の定、途中でさらに具合が悪くなってホテルへと帰ろうとしたのですが、日本チャンピオンでもある清野氏に
「中途半端にトレーニングするなら最初からついてくんじゃねぇ。お前一人のために車を使ってホテルまで送り届けなきゃならんのだぞ」
と叱られました。当時は携帯もなかったし、未成年の選手を一人で帰すにはリスクが大きすぎたのでした。
「やると決めたら、最後までやり通す。しかし、中途半端にやめるくらいなら最初からしない。」
この言葉は、僕の選手人生で最後の最後まで心に響く言葉でした。
この年、チューリッヒ選手権で13位でゴールし、生まれて初めて賞金をもらいました。このお金が嬉しくて嬉しくて、今でも大切に保管しています。
自分が自転車の世界水準でどこ(順位)にいるかを初めて自分自身で掴めた瞬間でした。
このレースに一緒に出た小嶋選手は高校2年生でインターハイを制している選手でしたが、なぜか僕の方がいい順位でゴールできて、とてもビックリした思い出があります。
その時、清野氏に言われた言葉は
「お前、将来どうしたいんだ。」
「ヨーロッパで活躍できる選手になりたいです。」
「なら、来年イタリアに絶対に来なきゃダメだ」
清野氏のこのひと言で、僕はイタリア行きを決意しました。
全てが大きく、方向転換する瞬間でした。
日本では同じ年の選手と戦ってもせいぜい30位くらいでしか走れず、実業団でも殆どのレースを完走すら出来ずリタイアしていた僕が、世界へと挑戦する暴挙に出たのです。
続く