宮澤崇史「自分の武器を見つける ー 我が道を振り返る・その6」
初めてイタリアへ渡った時。
日本でも活躍できなかった自分が、ヨーロッパに行って果たしてやっていけるのか?ということは勿論考えた。
実際、現地に行ってみるとあまりにも実力の差がありすぎて、トレーニングについていくだけでもやっとだった。
それでも、何をするべきかは見えていた。
何をするかは
何ができるか?
だけでしかない。なぜなら、人はできることしかできないから。
位置取りは、強い選手でなくてもできること。完走はコースによってできる時とできない時があるけれど、位置取りは必ずできるし、反対にできていないとレースで何が起きているかわからない。
だからレースを勉強するには先ず位置取りから、と直感した。
それは誰かから教わったわけでもないし、そのことが正解かどうかを評価してくれる人もいない。
自分一人で暗中模索する他なかった。
でも次第に、「お前はレースにちゃんと参加しているからそれでいい」とチームメイトから言われるようになり、レース中に集団の前にいようとしないチームメイトに対してはエースが自ら
「タカシの真似をしろ!」
と言ってくれるようになったり。次第に自分がチームに貢献できている場面が増えていく。
レースで良い働きができた時に投げかけられた言葉が
「ブラボータカシ!」
だった。
BRAVO.
ヨーロッパで生きるため、この言葉を一回でも多く自分に使ってもらえるように、僕はレースを走り始めたのだ。
僕が所属するチームは、プロになるか、それとも自転車を辞めるかという選択を目前に迫られたエリート23〜25才の選手達が所属するチームだった。
アンダーの選手は2名のみ、もう一人はアンダー4年目でエリートでも走れる選手だったので、走るレースは殆どがエリートレース。
そんな中で自分を立たせる方法はそれしかなかった。
逃げに乗ったらスプリントポイントだけは死ぬ気で取りに行き、レースがダメでもトレーニングに明け暮れた。
ま、それ以外やることがなかったというのが本音だけど。
インターネットがない時代は本当にすることがなかったから、トレーニングとレースのことしか頭に浮かばなかった。
そして、自分が食べているものへの疑問も大きくなり、それが料理を学ぶきっかけとなった。
10月になり、日本に帰ってきて一番驚いたことは、高校生の時には全く手も足も出なかった選手達(彼らは大学生になっていたのだけど)
あれ?っと思うくらい走れていなくて、逆に年上の選手たちをどう抜かそうか考えるくらいに、いつの間にか力の差が逆転していた。
そして、自分がレースで勝つために何を学べきかを真剣に考えたら、日本にいる意味がないことに気がついた。
日本で走るくらいなら、いっそ選手を辞めよう。
と、その時初めて思った。
日本に帰ってくる理由なんて、百個上げようと思えば千個は上げられた。
その理由を考えるくらいならヨーロッパで一つでも活躍できることを考えた方が、シンプルに僕自身の人生が前に進むと感じた。
そして、その理由は結局は片手でお釣りがくるくらいの数しかないことに気がついた。
なぜヨーロッパへ行くことをいまだに薦めるかというと、僕はそれしか知らないから。
日本にいる理由を説明できる人は山のようにいるし、多分その殆どは世界の頂点を一度でも自らの目で見たことがない人だと思う。
大海を知るには、必ず沖に出なければならない。
世界を知るには、その世界で必死で生きようと努力しなければならないし、そこで何かを掴んだ選手にしか世界はわからないと思う。
なので、僕は大学へ進学する選手にアドバイスはできないし、していない。
自分の知らない世界をさも知ったかのように言うことは失礼だと思っているからだ。
初めはみんな悶え苦しみ、絶望なんて感じている暇がないほど無我夢中で生きようとする。
トレーニングをしていても、苦しいとか、無理、とか言っていられるうちは、まだまだ行ける。
本当にやってやってやり尽くして、考え尽くしている選手は、絶望だなんて言っていられない。
そんなことをその後18年も僕は続けることになるのだけれど、それをヨーロッパに行くことで一年目から感じることができたのだ。