佐藤一朗「本格的なトレーニングを開始する前に」
前回までの5回にわたってTrainer’s Houseがトレーニングの指導を依頼されたとき、まず最初に行うプログラムをご紹介しました。
これはバイオメカニクス的見地から選手が自転車に対して力を正確に伝えられているかを確認するもので、正確に力を伝えられていないのに高い強度のトレーニングに移行しても筋肉のバランスやポジショニングを悪化してしまう事が多いため、まず最初に行っています。
こういったトレーニングの順番について何を優先すれば良いのかなとど大学のコーチや高校の教諭の方々と話をしていると良くテーマになるのが、「乗り込みが先かスキルが先か」という「鶏と卵」の様な答えのないテーマです。
そこで私の考えるジュニア育成(競技初心者)のプライオリティーについてお話ししておきたいと思います。
一般的に自転車競技を始める人はある程度自転車に乗ることが出来る人だと考えていますのて、通学で乗っていたり、スポーツサイクルでサイクリングを楽しんだりした経験があると言うことを前提にします。
👉Step1 競技としてのスタート
新しい選手が自転車部に入ってきたり、クラブチームに入会してきた場合、まず最初は楽しく自転車に乗ることを優先して欲しいと考えています。
みんなで走って楽しい、こんな遠くまで走ってこれた凄い!そんな感覚を最初に味わって欲しいのです。
強くなるほど辛い練習を嫌というほどしなくてはならなくなりますが、まずは自転車競技を楽しみ、好きになって貰わなければ続きません。キツい練習は勝ちたいという気持ちが芽生えてきてからで十分だと思います。
👉Step2 トレーニングの準備
勝ちたい、強くなりたいという気持ちが芽生えてきたらいよいよ本格的なトレーニングのスタートです。
その時私が最優先にするのは「乗り込む」ことです。自転車は機材を使ったスポーツですからそれを操作する技術は非常に重要です。
しかし一方で一般公道を走る交通手段でもあり、走行中の安全は何よりも優先しなくてはなりません。「ポジション」とか「身体の使い方」などと言ったことを意識しながら走るのは安全に走れるようになってからで十分だと思います。
肩の力を抜いて自転車を無意識にコントロール出来る様になるまでは、体力の強化(強度の高いトレーニングの下準備)を目的に自転車に乗って欲しいと考えています。
もちろんその間に補助トレーニングとして自重での体幹トレーニング等、強化に時間のかかる所を始める事は大賛成です。
👉Step3 正確なペダリングを構築するために
ある程度自転車に乗れるようになってきたら次のステップに移行します。何も考えずに自転車で乗り込んでいると誰もが”いまある筋力”で上手に走る事を覚えていきます。
安全に走って貰うためにはやむを得ない事ですが、強くなっていくためには定期的に補正をかけていく必要があります。つまりこのタイミングで技術的指導が始まると言うことですね。
まず最初に選手の個性というか、独特の癖がある場合早めに指導を行います。これは筋力とか筋バランスの問題では無く、”この方が良い!”みたいな選手の思い込みで行っている様な特異な部分があれば早い段階で直すように指導して上げた方が良いと思います。
次に選手の力が自転車に適切に伝わっているか否かを判断し、伝わっていないと判断した場合にはその原因を考えて、補正のための補助トレーニングを指導します。
自転車に上手く力を伝えられていない選手の多くは、本人は力を伝えようと意識していてもその力の伝達が何処かで途切れてしまったり、逃げてしまったりと言った筋力不足や筋バランスの悪さが原因となっている事が多いので、むやみにセッティングを変更して身体の使い方を強制するのでは無く、自転車に力を伝える為に必要な補助的な筋力を高める為のトレーニングを指導して行きます。
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ここで基礎知識として覚えておいて欲しい事があります。
関節を動かす筋肉の力は関節の角度によって必要な力が違います。筋肉は縮まる時に力を発揮しますので、縮まる距離が長いほど、つまり筋肉を長く伸ばした状態から縮める時の方が大きな力が発揮されますが、その状態で動かすには高い筋力が必要です。
一方、関節の動きの幅を広げることを”可動域を広げる”と表現します。可動域が狭ければ筋肉はあまり伸ばされていませんので関節を曲げる為(運動する)に大きな力は必要とされません。
しかし可動域を広げた場合筋肉が伸ばされますので運動するには大きな力が必要です。
これらのことから自転車のセッティングをする際には、競技経験が少ない、あるいは必要な筋力が出来ていない選手の場合、骨格的に最善のセッティングをするのでは無く、現在の筋力で運動が可能な関節可動域が保たれるセッティングを選択する必要があります。
恐らくそれは理想的なセッティングよりもサドルは低く後ろ気味、ハンドルは高めで近めのセッティングになると思います。
必要な筋力が無いにも係わらず無理なセッティングを強いた場合(乗って身体を作ると言った以前の考え方)、足らない筋力を補うため代償作用を伴ってしまい、適正なポジションが取れなくなってしまう、あるいは故障の原因となってしまう事が考えられます。
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👉Step4 本格的な強化のスタート
自転車の操作にも慣れ、適正なポジションを取れるようになったらいよいよ強度を上げた本格的なトレーニングを開始します。ここに来るまで早い人であれば数週間で来てしまうかもしれませんし、そうで無い方でも2〜3ヶ月あれば到達出来るのではないかと思います。
競技力を高める最も基本的な要素は、以前お話しした”運動生理学”によって評価される分野だと思います。ダッシュ力、トップスピード、スピード持久力など身体の生理的な能力を高めることで強化を図っていきます。
ここで選手の皆さんや指導者・コーチの方々が最も興味があるのが、どんなトレーニングが効果的か?と言うことだと思います。残念ながら全ての選手に共通する効果的なトレーニングと言う物は存在しません。
しかし一方でどんなトレーニングでも構わないのか?と聞かれればそうでもありません。どんなトレーニングでも何らかの効果はあり無意味な物はないのですが、トレーニングの内容、強度、タイミング、個々の選手にとっての優先順位等を考えれば自ずと効果的なトレーニングかそうで無いトレーニングかという差異は生じてきます。
では、その効果の違いを生じる原因は何処にあるのでしょうか?闇雲にキツいトレーニングメニューを強いる前に、そもそもトレーニングとはどういうことなのか、効果を高めるためにトレーニングの根本的な意味を少し考えて見ましょう。
さてここから佐藤のコラムの定番。回りくどい話が始まりますがしばしお付き合い下さい。
みなさんは手のひらに肉刺(マメ)や胼胝(タコ)を作ったことはあるでしょうか?
子供の頃鉄棒で逆上がりの練習をしていて作るやつですね。勉強しすぎて指に作ったなんて方もいらっしゃるかと思います。普段それほど強い刺激がかからない場所に、継続的に刺激が加わると柔らかかった皮膚が角質化してできる物です。
一旦角質化してしまうとそのままになってしまう場合もありますが、多くの場合が時間と共に元の状態に戻って行きます。これは生理的な変化でおきる事です。
鉄棒での練習を毎日の様につづける。しばらくすると手のひらにマメが出来て水ぶくれになり、それでも痛みをこらえて続けて行くとタコになっていく。
鉄棒の練習という本来の目的とは違っていますが手のひらは強くなって行きます。
身体に対して一定の刺激を入れ続ける。それによって身体に変化を促す。
実はこれがトレーニングの根幹にある人の身体の仕組みです。
自転車に上手に乗りたいと思えば自転車に乗り続ける。速く走りたいと思えば速く走る。簡単な事ですが、続ける事で身体は対応しようと様々な機能を発達させて行きます。しかし人と競う競技の世界では時間をかけて変化を待っている余裕はありません。
少しでも早く、効果的に変化を促し競技力を高めたい。そう思うのはスポーツに関わる者として当たり前の発想です。
では効果的に変化を促すための刺激とはどんな刺激なのでしょうか?
どんな刺激を入れれば求める変化が期待できるのでしょうか?
残念な事に私は約27年間の競技生活の中でこのことにフォーカスしたことは一度もありませんでした。自分の経験の中で実戦に即した形のトレーニングを考案したり、誰かか良いと言ったトレーニングメニューを取り入れる事はあっても、そのメニューが何故良いのかを考える事も。
鍼灸あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得するために専門学校に通い始めて、生理学や解剖学の授業で身体の仕組みを知ったときは本当にショックでした。
この事を20年早く知っていたらと。
と言うことで皆さんが最も興味のあるトレーニングの話はもう少し後に置いておいて、次回からは運動生理学の基礎知識について少しお話ししたいと思います。