三瓶将廣「すべては自分の力で決まる=自転車#3」
8歳で初出場を果たした世界選手権は準決勝敗退。しかし、共に出場した弟は3位入賞を果たし、そこから「弟を超える!」挑戦がスタートした。
気合いの入った僕は、帰国後に行われた全日本選手権(上越で行われた初レース)で年上ライダーを抑えて優勝。その後も、翌年の世界選手権フランス大会では、「必ず弟を超える」という目標を決め、練習に明け暮れた。
海外ビデオをみて見様見真似で取り組んだゲート練習@緑山 大人に負けるのが嫌いだった!
しかし、その練習の成果も実らず、世界選手権で、無念にも準々決勝敗退。帰国後の全日本選手権では優勝するものの、何か物足りない感情を覚えた。そんな悶々としていた僕に、当時講習会のインストラクターを務めていた戸川祐一さん(現ナショナルチームマネージャー)が声をかけてくれた。「BMXの本場、アメリカへ行こう!」ということだった。
国内で自信はついたものの、世界選手権では結果が出ない、僕の心の中に湧き上がる「何か」。その「何か」を求めてアメリカのレースへ挑戦することとなった。
BMXの本場アメリカへの初挑戦は2000年。出場したのはABAナショナル大会。しかし、結果は惨敗だった。おそらく準々決勝で敗退だったと思う。緊張でわけも分からず、結果をあまり覚えていないほどだ。
唯一覚えていることといえば、自信を失い、完全にレースをしたくなくなってしまったということ。コースや雰囲気に対応できなかったのはもちろん、日本で使っていたスタートゲートのシステムが、アメリカのものと全く違っていたのだ。
自宅で使っていたものは一昔前の電動マグネットタイプ。それに対して、アメリカはエアーシリンダータイプに進化していて、まったくタイミングが追い付かなかった。当時は、その違いにすら気づかず、只々凹むばかり。自分が遅いとしか思っていなかったのだ。
自信を失ったとは言え、アメリカで感じたプロの速さや、同世代のレベルの高さに刺激を受け、収穫と課題を持ち帰って、帰国後は再び練習漬けの毎日を送った。スタートゲートも、チューブで引っ張りまくって、エアーシリンダーより速いものにしてやった。
アメリカ初挑戦の時にGTチームで、フランスの世界王者トーマス・アリエーとのツーショット(現在は日本王者。長迫吉拓のコーチ)
半年後、再び訪れたアメリカ挑戦。出場したのは世界最高峰のビッグレース、ABAワールドチャンピオンシップ。(当時はUCI主催のものとABAが主催するものとで2つのワールドチャンピオンシップがあった。)そこで国内でのスタート練習の成果もあり、ついに決勝進出を果たす。
決勝は転倒してしまって7位だったが、念願だった海外のビッグレースで初の決勝進出。ちなみに、その大会で同じクラスで優勝したのが、後の大親友ジョイ・ブラッドフォード(アメリカ)だ。決勝進出という1つの目標を達成し大きなトロフィーをゲットした僕。一緒に参戦した日本人や、お世話になったGTチームからも祝福され、その時は最高にうれしかった。
初めて決勝に進出しトロフィーをゲット(当時の写真は三瓶家の年賀状となった)
ABAで決勝進出を果たした翌週。今度はUCI世界選手権(現在も続いているワールドチャンピオンシップ)で、「弟を超える」という目標に挑戦するべく、アルゼンチンへ。余談だが、僕とシクロチャンネル(当時シクロイマージュ)との出会いは、この10歳の時のアルゼンチン大会がきっかけだ。
慣れない南米へ、母と弟、そして協会会長の4人で参戦。前の週の自信から、順調に準決勝まで勝ち進んだ。その準決勝、スタートは少々出遅れたものの、コース中盤で4位まであがり、夢の世界選手権決勝、「弟を超す」スタートラインが見えた!と思った直後、まさかの転倒。
トップ集団にはいれるようになってきたが、準決勝でまさかのマシントラブル
直線の漕ぎセクションで突然前転。意味が分からず起き上がったが、チェーンリングボルトが折れ、ギア板が外れていた。受け入れ難いタフなシチュエーションだった。なかなか、越えることのできない弟の壁。それでも大きな経験を積んで、再び「弟を超える」という挑戦が続いていくこととなった。
#4に続く。
【BMXに興味をもたれた方!動画「HOW TO BUY BMX」をチェック!!】