三瓶将廣「すべては自分の力で決まる=自転車#5」
2003年。シーズンがはじまり中学校へ入学、夏の世界選手権では5度目の挑戦でようやく決勝の舞台にたった。
しかし結果は4位に終わり、弟の記録「世界選手権3位」を超える戦いは翌年へ持ち越し。
帰国後は成績も上り調子で、全日本選手権でも4年ぶりに優勝を果たした。
4年ぶりに優勝した全日本選手権。STAATS BIKESの社長も来日し負けられないレースとなった
その後、10月、11月にアメリカで行われる2つのビッグレース「フォールナショナル」と「グランドナショナル」へ参戦。
「フォールナショナル」ではコンスタントに表彰台をゲットし、1つのクラスではラッキーながらもアメリカで初優勝もすることが出来た。
レース後、所属するSTAATSチームのオーナーであるジェイソンの自宅を訪れ、1か月間のホームステイすることに。この時から本格的に拠点をアメリカに移し、ファクトリーチームの一員としてレースに転戦することとなった。そして日本ではできない数々の貴重な体験や、出会いを経験し、自分の可能性を大きく広げる旅の始まりとなった。
STAATS BIKESの社長、ジェイソンは奥さんが日本人で、自身も日本語が話せBMXレースでもおじさんクラスで活躍する選手だった。 現在はGTのプロダクトマネージャーを務めている。
日本語は通じるとはいえ、慣れない環境に戸惑うことは少なくなかった。平日はジェイソンが仕事のため、STAATS(バイクブランド)のオフィスへ一緒に行き、出来る雑用を必死にこなしていった。
自転車の組み立てから始まり、入荷した商品の仕分け、オフィスと倉庫の掃除や、会場で使用した大型トレーラートラックの掃除など、結果以外でも受け入れてもらえるようになんでもやった。
ライダーとしても地元レースに参加したり、新しい商品のテストなど、わからないながらもフィードバックをしていった。
そして、1か月はあっという間に過ぎ、アメリカのナショナルシリーズ最終戦であり、世界最大の大会「グランドナショナル」へ出場を果たすこととなった。
トレーラーに揺られること2000㎞。会場へ到着するとちょうどコースが出来上がったところで、突然テストを行うことに。しかもプロセクションと呼ばれる、プロ専用レーン。
当然その当時日本にはプロセクションは存在しなかった。乗ったこともない自転車と、誰のものかも分からない小さいヘルメットだけ用意され、「さぁいけ!」と送りだされた。
「生き残るためには何でも挑戦する」そう決めて何度かトライし、途中まで出来るようになってその日は解放された。
こういった経験ができ、様々なシチュエーションに対応できるようになったのも、ファクトリーチームで一緒に行動することができたからだったと思うと、本当にラッキーで良い選択をしたと思っている。
練習でプロセクションを通過できるようになり、数日後の本番では、プロセクションを選択することができた。レース中に挑戦したのは最年少で、気分も乗っていたが転倒。骨折というお土産をいただいた!笑
最後は怪我で幕を閉じた1か月という短い遠征だったが、その間にたくさんの経験をし、さらに「Team STAATS Masahiro Sampei from Japan」はいったい何者だ!という、リザルト+インパクトを残して帰国することができた。
帰国後は治療に専念し、次の年へと備えることとなった。そして、いよいよレースキャリアでのハイライトの1つ、2004年シーズンへ突入していく。
ビデオ:http://www.joeybradford.com/images/videos/MasaDigger.wmv
プロセクションに挑戦した際のクラッシュの映像