栗村修「様々な価値観」
現在、私が担当している『ツアー・オブ・ジャパン』の業務のなかで、チーム招聘に関する難しい問題に直面しています。詳細については敢えて割愛いたしますが、この問題を簡潔に表現するならば、『価値観の相違』であることは間違いありません。
何事に於いても一つの物事に対して様々な価値観が存在しているわけですが、それらについて唯一無二の明確な答えというのは存在しておらず、善悪を含めたそれぞれの価値観や、最終的にどうしたいのか、また、それらに取り組むタイミングでも、答えは大きく変わってきます。
仮に、仕事、というか、人生の課題の大半が『人間関係』だったとした場合『価値観の相違に対する正しいこなし方(スキル)』を身につけているかどうかはとても重要な要素となってきます。
結局のところ、本当の意味での『正論』というものは存在していないわけで、仮に『正論』が存在していたとしても、その『正論』がすべてのひとに対して有益かといえばまったくもってそんなことはなく、もし『性悪説(人の性は悪なり、その善なるものは偽なり)』が正しいのであれば、『正論』など殆どにひとに対して有害だということになります。
最近よく感じることですが、世の中の決まりごとや、組織のなかに設定してある規定などは、その殆どが『悪人(もしくは怠け者)』に対するためのルールとなっています。
『志』や『前向きな目標』(それらがすべて永久にポジティブである続けるという証明はできませんが…)をサポートするためのルールなどというのは数でいえば圧倒的に少なく、『いかに悪いことさせないようにするか』が主要な命題となっており、多くの人たちは人生の大半の時間を直接的・間接的にそのことに関する作業に費やしています。
そもそも、悪いことをしている連中というのは『悪いことをしている』という認識を持っているのでしょうか。
自覚はしていたとしても、『悪いこと』を『目的を達成するための手段』や『チャンス』だと捉えている可能性があり、こうなってくるといくら話をしても、永遠に平行線をたどる可能性が高くなってきます。
結局のところ、人間社会の殆どが『欲』と『嫉妬』で形成されている可能性が高いわけで、究極的にいえば、人間の存在そのものが持つ問題に繋がっていってしまうのだと感じます。