An Essay Through the Lenses #1

Posted on: 2010.07.26

 近年、世界のロードレースのシーズンインは早くなって、1月中旬から始まるようになっています。ツール・ダウン・アンダー(オーストラリア)、それが終わるとすぐにツアー・オブ・カタール、そしてツール・ド・ランカウイ(マレーシア)へと続きます。僕は毎年この3戦すべてを取材していますが、始まったのはいずれも近年のことで、昔のシーズンインは2月中旬でした。

 これらのレースはいずれも非常によくオーガナイズされていて、ロードレースの世界への広がりを実感しますが、現実は消滅して行くレースの方が多いのです。その原因は、やっぱり不況などによる資金不足です。有名なレースで最近なくなったものとしては、フランスのミディ・リーブル、スイスのチューリッヒ選手権、スペインのブエルタ・ア・アラゴンやセマーナ・カタルーニャ、イタリアのミラノ~トリノ、チェコの
ピースレースなど、枚挙にいとまがありません。小さなレースを含めると、大変な数に上ります。

 僕は日本のレースを取材する機会はほとんどないのですが、昨年はジャパンカップに行きました。大勢のファンが詰めかけていて、ロードレースの認知が高まっていることを大変うれしく思いました。

 反面、気づいた点もいくつかありました。まず、会場に一般の人がクルマで簡単に行けないことです。シャトルバスがあるようなのですが、大会終了後には長い列ができていました。あの会場にクルマで行けないとなると、若い人以外はかなり厳しいものがあります。お年寄りやからだの不自由な方は、たぶん無理でしょう。ヨーロッパでは、選手が町中を走ってそこで自転車が自然と浸透します。山の中のサーキットコースで、行くのに規制があると、マニアだけのものになってしまいがちです。

 そこで一つの提案ですが、たとえばコースで道幅の広いところにはクルマを一列に止められるようにしたらどうでしょうか? ヨーロッパのレースでも、クルマが停車しているところを選手が走るのはまったく普通なのです。あるいは、コースではない道路をその日だけ、特別に駐車できるようにすることはできないものでしょうか。

 その他、気づいたことが他にもあるのですが、ここではスペースの関係で割愛します。

 しかし、もしかすると、宇都宮で1990年に行われた世界選手権のやり方が、そのままになっているのではないかと思えるところがあります。実際、ジャパンカップの表彰式では数年前まで国歌が斉唱されていましたが、これも世界選のなごりのはずです。
 国歌が響くレースは、ツール・ド・フランスと世界選だけだからです。

 ご存知、世界選手権はもっとも重要なレースなので、普通のロードレースとは違ってかなりシビアな運営がされます。もちろん、コースにクルマが止まっていることはあり得ません。

 僕は数年前、日本からツール・ド・フランスの取材に来ている方々と夕食をいっしょにしたときのことが忘れられません。というのは、「パリ~ニースで道路の交通規制が始まるのは、選手の通過の直前です」と言ったら、みなさん驚かれたのです。

 パリ~ニースはツール・ド・フランスと同じ主催者で、世界的にもかなり有名なレースなのですが、時には選手が来る数時間も前に交通が規制されるツール・ド・フランスとはまったく違って、選手の来る直前に白バイがクルマの交通を止める程度です。パリ~ニースがこうなのですから、他のレースは言うまでもありません。

 もし日本からツール・ド・フランスを取材に来ていた人たちが、「ロードレースはこういうものだ」と思い込んで日本に持ち帰ると、やっかいなことになります。ツール・ド・フランスは世界で最も有名なレースですが、特別な規則や習慣であふれかえっているのです。

 「レースは世界選やツール・ド・フランスのようでなくてはならない」という固定観念で運営されてしまったら、とてもコストと手間がかかり、そして規則に縛られたものになってしまう可能性があると思うのです。

 それから大事なことがもう一つ。レースの勝者がゴールするとき、そこには必ずレースディレクターの乗ったクルマがあります。

 ところが、ジャパンカップはいつも審判の人が勝者の後ろからゴールしています。これは世界選などにしか見られない、きわめて珍しいことなのです。これは何を意味しているかというと、ちゃんとしたレースディレクターが不在ということです。たとえばツール・ド・フランスにはかつてジャンマリー・ルブランという有名なディレクターいて、今はクリスティアン・プリュドムが後継しています。またどのレースに行っても、そのレースのボスが勝者の後ろからクルマでゴールします。レースを仕切る人は、審判ではなくてレースディレクターです。実際、レースディレクターが審判の越権行為をしかりつけた場面を見たこともあります。

 一昨年のジャパンカップで、あるスチールカメラマンがハンディ・ビデオでオートバイから映像を撮り続けた結果、固定カメラからの映像に大きな障害が出たと聞きました。そもそも映像と写真のオートバイの動きは大きく異なっており、2つの行為を同時にやるという行為自体があり得ないのですが、すべてを把握しているレースディレクターがそこにいたならば、ただちに除外できたことでしょう。

 僕はよく、「ツール・ド・フランスや世界選こそがレースと思うなかれ」と言います。共に世界最高のレースですが、あくまでも特殊なのです。もしそうしたレースしか見たことがない人が、地方で行われる普通のロードレースを見たら、あまりに開放的であっけらかんとしている姿にきっと驚くと思います。そしてそれがロードレースでもっとも大切な、一般の人との距離の近さ(物理的に精神的にも)なのだと思います。そして、おおざっぱであるけれども、しっかりとレースが運営されている、そんな姿を見てほしいのです。

 僕は今、たまたま見たジャパンカップを例にいくつかの提言をしました。もしかすると、僕の持っているいくつかの疑問点は、それなりの理由があってそういう形になっているのかもしれません。そうであれば、どうか聞き流してください。そしてまた、その運営の立場で大変な苦労をされている方が大勢いることをよく知っています。だからこそ、これからも長く続いてほしいと思うのです。

 しかし、世界的にレース消滅があとをたたない現実の中で、レースの姿も進化していかなければならないと思うのです。

END

砂田弓弦(すなだ・ゆづる)/1961年富山市生まれ。法政大学卒業後、イタリアに渡り、フォトグラファーとなる。現在は日本とイタリアの間を頻繁に行き来しており、ミラノにオフィスを構えて、自転車競技を中心に撮影をしている。その作品はイタリア、フランス、イギリス、アメリカ、オーストラリア、日本をはじめとする多くの国のメディアに掲載されているほか、内外の広告の分野でも定評を得ている。
http://www.yuzurusunada.com

AUTHOR PROFILE

砂田弓弦 すなだ・ゆづる/1961年富山市生まれ。法政大学卒業後、イタリアに渡り、フォトグラファーとなる。現在は日本とイタリアの間を頻繁に行き来しており、ミラノにオフィスを構えて、自転車競技を中心に撮影をしている。その作品はイタリア、フランス、イギリス、アメリカ、オーストラリア、日本をはじめとする多くの国のメディアに掲載されているほか、内外の広告の分野でも定評を得ている。

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